私の流山・今昔

この何年かで我が「流山市」はある種ブランド化しつつあると感じています。
それは他でもなくTX線の開通や「母になるなら流山」なるキャンペーンの下、これに共感した子育て世代家族の転入、それに多種多様な大型商業施設の進出による賑わいに依るものと考えられます。  そして何よりも、近隣の各都市が羨む程に「流山」の名が付く都心へ直通のTX線駅が何と3駅も在るのですから。
しかしこの「流山」と言う地名が地図上から消えてしまい、今は存在してない危機的な出来事があったのです、この事実をご存知の方は多くないのではと推測致します。
終戦後 GHQの方針と政府による地方財政の立て直しの為に全国的に町村合併が進められました、そこで流山においても昭和26年(1951年)4月1日に1町2村(流山町、八木村、新川村)の対等合併がなり新町の誕生となりました。
その町名はなんと「江戸川町」でした、流山町ではありませんでした。更に驚いたことにこの新生「江戸川町」は翌年の昭和27年1月1日に「流山町」と変更されました。 苦労の産物「江戸川町」は誕生から僅か7ヶ月間で幕引きとなりました。   この出来事は私が小学4年生(10歳)の時であり、この経緯から4年生終了時の通知表に載る学校名は合併前と変わらず「千葉県東葛飾流山町 流山町立流山小学校」のままとなっています。
この江戸川町より流山町への撤回変更の事由は諸説あると云われています。
一般的に広く伝えられているのは、東京都の江戸川区より郵便物や行政運営上色々と紛らわしいので至急の変更を強く迫られ、変更せざるを得なかったのだとの説です、この説は流山町関係の史料にも記載があります。
しかしながら、後年に私が聞いた祖父・古坂喜左衛門の話の内容やそのニュアンスから察するところ、それ以外の事由もあったのではと感じました。
町村合併が話題になり始めた頃から合併に対しては各町村でも賛否両論を含め多くの色々な意見があったようです、特に流山おいては江戸時代より白味醂の名産地として、また新撰組 「近藤 勇、土方歳三 離別の地」として全国にも名高い下総・流山の名称の存続の可否への関心は強く、変更への根強い反対は相当なものであったようでした。 これと同様な動きは新川村、八木村にもそれぞれあったに違いないと思いなす。
それ故、合併協議会が設置されると「新町名」やら「町役場の場所」を始めその他大事な事項の決定には、それぞれの町村の主張やら要望等の纏め、そして融和に至るまでは大変事業だったと聞きました。
そこで、あくまでも私が勝手に推測して立てた仮説ですが、この7ヶ月での「撤回変更」劇には別のシナリオがあったのでは感じました。それは、「対等合併」がキイワードであったと思います、「対等」となれば協議会の議論の中で新町の名を選び決めるのは最難題であった筈です。他の重要事項は政治判断で調整済みの上、或る合意により町名は先ず「江戸川町」としたとは考えられないでしょうか。 すなわち、速やかな合併による新町がスタート後に時間を空けずに町名は「流山町」とする或る「合意」があったのではと?
再度申しますがこれはあくまで私の仮説であることをご承知下さい。
例えば、仮にこのような合意がなされたのだとすれば、それは江戸時代からの流山、八木、新川の3地域間にあった濃密な人間関係や経済交流の太い繋がりに依るものであろうと想像は出来ます。  私と同様に流山生まれ、あるいは新旧の流山の事情をよく知る方ならば、この地域間の親戚・縁戚関係の多さと強さを理解出来る筈ですし、農商工の絆の太さも云うまでもないと思います、合併当時の昭和20年代は現在とは比べられない程更に濃密であったと断言出来ます。
それ故、合併と言う難しい事業を昭和25年2月の協議会発足から1年余りで成し遂げられたのは、上記の人間関係で裏付けされた「互譲」、「融和」の心構えが、当時の各担当者が共有していたからに他ならないと信じざるを得ません。
何れかの事由はともかく、合意形成と合併実現に携わった当時の旧・流山町、旧・新川村、旧・八木村の幹部の方々、それを下支え支持した商工会(祖父・古坂喜左衛門も含む)はじめ各種団体そして町民に大拍手です。

(裏事情などは私の祖父・古坂喜左衛門 安政6年(1,859)創業の呉服商・ましや・3代目 明治23年~昭和49年歿 享年83歳 談より)

余談となりますがこの町村合併前の促進協議会の設置時には小金町(現 松戸市小金)もメンバーでしたが途中で離脱したとの事です、もしも仮に小金町も合併に加わっていたなら「流山」は現在とは全く違う発展を遂げたかも知れませんね。
なお 初代・流山町長は 中村 寛次 氏 (前・流山町長 流山町三輪の山)です
さて、ここで話を戻しますが、この幻の「江戸川町」について私の思い出や記憶ばかりではなく確かな江戸川町関連の品をと色々と探しましたがなかなか見つからず、そこで流山市市立博物館の主任学芸員・小栗さんを訪ねましたところ唯一ありますよと教えて頂きました。それが「江戸川町町長之印」でした(参考 写真 A 流山市市立博物館所蔵)。
しかし乍ら、今回 私が一番探し当てたいものが有りました、それは自転車鑑札です。
町名変更となれば必ず自転車鑑札も全く新しい物に変わった筈です。
皆さんは自転車鑑札をご存知でしょうか❓
これは現在の防犯登録票とは全く異なる代物です。 それは納税済み証明の鑑札でした。昭和26年当時はまだ自転車には税が課せられており、れっきとした地方税・市町村税でした。自転車税納税の証として「自転車鑑札 市町村名 登録ナンバー」が刻印されたプレート(アルミ製かと)鑑札を必ず車体に付けねばならない制度です、他にも「リヤカーや荷車」にも荷車税として同額の税金が課せられていたのです。                                       調べましたら昭和26年当時の税額は全国一律でそれぞれ1台当たり 年/200円だったようです。
何故に自転車鑑札に拘るのかと申しますと、流山小学校4年生当時の私がこの「江戸川町」を朧気ながらでも憶えているは我が家(呉服・家具商)のちょっとした混乱に繋がります、それが自転車鑑札に関わるからです。町村合併、町名変更で祖父や父を始め店の衆が「伝票の名入れ」、「手拭いの名入れ」はどうするやら、「鑑札」はどうなるのだ等と戸惑い話し合っていました。
現在でも自転車は日常生活に欠かせない移動手段の一つですが、当時は更に農工商の業種業態を問わず仕事上の実用車・運搬車として大きな役割を果たしていたと思います。
その頃我が家にも母や奥の女衆用の婦人車、店舗用の実用車数台と運搬車(家具運搬・リヤカーを引くタイヤも太く荷台もやや大型)そしてリヤカーがありました。ただ、それらに付けられていた合併当時の流山町の鑑札がどの様な型式や大きさであったか残念乍ら記憶にありませんが、その後5~6年経った後、確か高校1年生の頃(昭和32年頃)に我が家(店舗)の自転車に町章(現 市章)が刻印された新・自転車鑑札が後部の泥除けに取り付けてあった憶えはあります。
少し長くなりましたが幻の「江戸川町」にかかわる私の思い出です。先程触れました家業に関わる事はまたの機会があればとさせて頂きます。

「後記」 自転車・荷車税は昭和33年(1958年)に撤廃となりました、それは通称「バタバタと」呼ばれた原動機付自転車の流行=課税対象の時期。 原付は16歳で免許が取得るので早く手に入れたい憧れの一つでした、特に本田技研の「「スーパーカブF型」は人気が有りました、憶えておいでの方も多いと思います。
また是非とも流山関連の自転車鑑札をと東京・目黒の「自転車文化センター」を訪ね協力頂きましたが見つかりませんでしたが、ただ展示品の中に1台のみ鑑札付きの自転車がありました。それは、現在は新潟県魚沼市の一部となっている「小出町」の物でした。許可を得てカメラに収めさせて頂きました(参考 写真 B 自転車文化センター所蔵) 流山町の鑑札もこれに近いものであったのではと考えます。
古坂 稔 (1965年 政経卒)