曇天なれど雨は落ちず10月の涼しさ。外出に好条件となった9月7日日曜日午後2時、北千住駅東武線改札口に集合した参加者23人が隅田川七福神を訪ねて東武伊勢崎線業平橋駅に降り立ったのが午後2時37分。
お正月の混雑と無縁な初秋の七福神めぐり、いよいよ出発である。隅田川に向かって5分ほどで墨田公園の中にある牛島神社の鳥居をくぐる。秋の祭礼を知らせるポスターが道筋に貼られていたが、三社祭と肩を並べる賑わいだとのこと。だがこの神社は七福神に入っていない。言問通りを越えて200メートルほどで「すみだ郷土文化資料館」入館料は100円であるが20人以上の団体割引で一人80円。赤いレンガのしゃれた建物で、すみだの歴史、伝統工芸、江戸下町の文化風俗を楽しめる。2階の「隅田川とレガッタ」のコーナーには早慶をはじめ東大、東商大など隅田川と縁の深い大学のボートの歴史的資料が展示されている。私事で恐縮だが、展示されているレガッタのオールは義父が経営していたボートの会社で作ったものだと聞いていたが、初めて見た。
散策会の七福神めぐりは資料館に近い恵比寿、大黒の二神を祀る三囲神社から始まった。墨堤が近いことを忘れさせるような、緑の木立に囲まれたこの神社は弘法大師が創建した祠を修復建立したものという。社殿修復の時、白狐に跨った神像を収めた壷が出てきたが、その白狐が神像の周りを三度回って何処かへ消えた、これが「みめぐり」の名の由来らしい。七福神の中で唯一日本の神は恵比寿で大黒はインドの神だそうである。二神一対で商売繁盛のご利益があるとのこと。
次の弘福寺までは300メートルほどで、たどる道がその名も「見番通り」、途中向島墨堤組合(見番)や料亭があったりして花街の風情をいまだ漂わせる家並みがのこっている。永井荷風や吉行淳之介の小説で名を馳せた玉の井や鳩の町はこの界隈から北東にあたるというから、この向島一帯は、紅灯の巷として江戸の頃から遊び人をワクワクさせた有難い場所に恵まれて(?)いたわけだ。
程なく布袋尊を祀る弘福寺。中国風の本堂は七福神の社寺のなかで一番大きい。心の豊かさを諭す布袋は実在した中国の神様。日本あり、インドあり、中国ありで七福神はまさにインターナショナル。
お隣と言ってもよい距離に長命寺がある。言問幼稚園が庭内にあって、今日は日曜日だから静かだが普段は幼児の明るい声がこだましている筈だ。ここに祀られているのは弁才、音楽など芸能を司るインドの女神弁財天とのことで、育児教育にもご利益があるかも。この長命寺、お寺さんより裏手に店がある「桜もち」で有名。
言問といえば、我らが散策会の世話人として尽力されている漆野さんはこの近くの言問小学校の卒業生で、同級生には料亭や置屋の女将もいるとのこと。粋なところで小学時代を過ごしたのである。漆野さんだけではない鈴木さんは生まれ育ちも向島、今井さんに到ってはお嬢さんがこれから訪ねる白鬚神社の宮司に嫁いでいるとのこと、流山のお住まいであるが三氏は江戸っ子なのだ。
「桜もち」と並んで有名な「言問団子」の前を通って隅田川を望む堤に出る。桜の頃毎年早慶レガッタで二十数年、左手に見える桜橋のたもとの大会本部に通ったことを想い出す。最前列の椅子で、耳が遠くなりトイレが近くなった九十歳の義父が、それでも稲門艇友会名誉会長として川面を走る早慶の艇を黙ってじっと見つめていた。早稲田が慶応に久し振りにエイトで勝ったとき年老いた義父がひそかに涙を拭いたのを今でも覚えている。その義父も三年前に逝った。
長命寺までは比較的まとまっているが、ここから先の三箇所はバラけてくる。王貞治杯少年野球大会のグランドを左に見てアサヒビールの向島倉庫を過ぎ、400メートルのところを右に入り、200メートル程先に隅田川七福神発祥の地と言われる向島百花園がある。
ここは200年ほど前、骨董屋で儲けた佐原鞠塢が作った梅園で、彼が愛蔵していた福禄寿像に目をつけた大田蜀山人や酒井抱一など文化人の発案で七福神めぐりが始まったと言う。入園料は150円であるが、ここでも団体の利をいかす。木戸を入ると、国の名勝・史跡であることを忘れてしまいそうな山野草木茂るがままの自然が迎えてくれた。開園当時よりお偉い方にも評判だったらしく天皇、皇族や将軍なども訪れたとのこと、再建された御成座敷が一般客向けに公開されている。風流人がつくり風流人が集って風流な遊びを楽しんだ伝統が今に生きており、秋の虫の声を楽しむ虫聞きの会とか、仲秋の名月を愛でる月見の会などが現在でも開かれるそうだ。月見となれば一句ひねるということになり園内には二十九の句碑があるとのこと。墨東とか向島と言うと遊び、風流のイメージが昔からあるが、この百花園はその風流の地が生み出した代表的な町人文化であろう。
寿老神の白鬚神社は百花園を出て200メートル程戻る。近江の白鬚大明神の分霊を祀ったのが始まりで、七福神を設定する時、寿老人は白い鬚の神様ということで決めたらしい。延命長寿、無病息災を願う人々の参拝が後をたたないとのこと。蓄財や福徳、勇気、芸道にはもはや執着しても詮無いが、長寿のほうはいささか執着ありと拍手を打つ。お賽銭もいささかフンパツ。先述のように今井さんのお身内が宮司をされておるだけでなく、今井さんのお母様も白鬚神社の出とのことである。お陰で参加者一同特別に白鬚神社の御供物を頂戴する。有難いことである。
白鬚神社から最後の多聞寺までは1.5キロほどの距離がある。墨堤通りを右に入ってからは知った人の案内がないと迷いやすい。歴史を感じさせる古い茅葺の山門をくぐると、関東大震災や戦災を免れ昔の面影をつたえる多聞寺の本堂。ここのご本尊は弘法大師が作ったと伝えられる毘沙門天、武勇の神だ。山門をくぐり左側に「狸塚」と刻んだ碑がある。この寺は狸にまつわる言い伝えがあって狸寺とも呼ばれるそうであるが、いかにも庶民的の社に相応しい別称である。左手奥にある映画人の墓には、懐かしい俳優女優の名前も刻まれている。
ここまで業平橋駅から4キロ弱、散策を楽しむに適当な距離である。当時の江戸の人達にとっても、正月の七福神めぐりを半日かけてゆっくり楽しむのに適当な散策であったろう。
多聞寺から4分ほどの堀切駅から北千住に向かう。北千住駅着午後5時15分、予定通り約3時間で集合場所に戻って来たことになる。漆野世話人の下見の確かさに舌をまく。
北千住駅前の居酒屋「天狗」で毎度楽しみな懇親会。ビールで乾杯の後参加者各人の自己紹介。回を追って親密さが増す集いは、和やかな内に次回10月初旬の鎌倉散策に思いを馳せつつ解散となった。時に午後6時半。
漆野さん、皆さん今回も又楽しい時間を有難うございました。
榎 本 右(すすむ) (1960年 法学部卒)