散策会

(第51回)土浦の歴史散策

秋田谷 勇(1966年理工卒)

11月28日は暑くもなく寒くもなく快晴で、まさに絶好の散策日和に恵まれ、一行の運の良さを占うかのような一日であった。柏駅に集合したのは牛島、石橋、山本(正)、鈴木(一)、榎本、小笠原、奈良、青山、川口、北原、漆野、野中、菅原、詫摩、秋田谷(敬称略)の総勢15人のメンバーであった。柏駅から約30分の土浦駅で下車し、土浦城跡の方向に15分程歩くと左側に中城通り(旧水戸街道)があり、まず目に飛び込んできたのはまちかど蔵[野村]とまちかど蔵[大徳]であった。

それぞれ共に江戸時代に造られており、特に[大徳]は観光情報を提供する街のアンテナショップとして利用されていた。ここでは当地特産のレンコンやワカサギの加工品をはじめとして、「カレーのまち土浦」を目指した関連商品などが置かれており、購入したメンバーも見受けられた。さらに天保年間に建てられた矢口家住宅など歴史の重みのある建物が並んだこの通称「歴史の小径」を通り過ぎ住宅街を少し進むと等覚寺(正確には等は草冠に寺、覚は旧字の覺)に到着した。
等覚寺では国指定重要文化財である建永年間に造られた銅鐘を遠景に、頭上、前後左右に伸びた松の古木の下で集合写真を撮った。この寺の入り口付近に墓石だけが多数並んでいたのは異様な光景であった。等覚寺を後に5分程進むと元は土浦藩の藩校であった郁文館の正門があった。今では門だけが残っており、土浦第一中学校の一部となっている。土浦市立博物館へ行く前に神龍寺の広い境内を通るとここにもメイン通路に墓石だけが無数に並んでおり、今では墓参する人もいなくなった墓石たちの哀れさを感じさせるような光景であった。

土浦市立博物館は展示室が1、2、3と3つに分かれており、それぞれの展示室を若いはりのある学芸員が詳しく説明してくれた。展示室1では大名土屋家の文化コーナーとして土屋家の刀剣3振りと茶道具で、刀剣の数は83振りあり、交代で展示されているとのことであった。なかでも南北朝時代に筑州住行弘によって造られた短剣は国宝となっていて毎年秋にガードマン付きで展示されるとのことであった。
展示室2には同じく大名土屋家の文化として、香取神宮から借りた国指定重要文化財である下総国と常陸国の2つの海夫注文【注:津(港)名と知行者名を列記した文書。室町幕府により海夫を各在地領主から新たに香取神宮の支配に入るように命じられた】や骨董品などが陳列されていた。
2階にある展示室3には「霞ヶ浦に育まれた人々のくらし」というテーマで古代の霞ヶ浦は太平洋に流れ込む大河の姿をしていたのでカワをわたった人・モノ・情報に関する展示がされていた。
なお「桜田門外の変」の上映に伴い、土浦市立博物館が保管管理している関係資料として、大老井伊直助襲撃に合わせて京で挙兵に及ぼうとした水戸藩奥右筆頭取高橋多一郎が、幕府の追手にかかり大阪で自刃した時の脇差や桜田の紅雪4冊なども展示されていた。また我々を案内してくれたこの学芸員は中世を得意としていて、来年は展示室3の展示用看板を取り除き特別展を行うのでぜひ見に来てほしいと言っていた。
土浦市立博物館を出るとあたりは亀城公園となっており、ここは土屋氏の城跡で9万5千石の割には狭い所である。江戸時代初期には石高が小さくその当時に決められた大きさでその後加増されても城を大きくすることができなかったとのことである。

亀城公園の中には土浦城東櫓が復元されており、土浦城発掘時の出土資料や土浦城址の古写真が展示されていた。櫓とはもともとは城の防御の拠点として、敵の様子を探ったり、城下町全体の安全を見守るという物見の役割や、武器庫の役割をもった建物である。江戸時代には、貴重な書類や品物を入れる倉庫の役割も加わったということで、この東櫓も文庫蔵の役割も果たしていて虫干しをしていたという記録も残されている。恐らく徳川将軍から拝領した貴重な品々などを入れておく重要な蔵でもあったことが推察される。夕暮れも早く、4時20分ともなると亀城公園のあたり一帯はそろそろ薄暗くなりかけ、本日の散策もゴールに近づき、後は乾いたのどを潤す早めの忘年会に向けて人通りの少ない道を駅へ向けて急ぐこととなった。5時半に柏駅に戻り、「庄や」柏西口店で忘年会。全員が「我が家の三大ニュース」を披露する。孫や家族の健康がトップニュースになる会員が多かった。あっと言う間の1年であったが、来年も元気に楽しい散策を誓ってお開きとなった。
(完)