「閻魔大魔王」
流山二丁目の新選組陣屋跡の脇に閻魔堂が在ります。
創建は安永5年(1776年)といわれていますが定かではありません。現在の建物は明治43年(1910年)の
建築です。閻魔堂内部には帽子をかぶった舌出し閻魔大王像が安置されています。昔から閻魔様は人が嘘をつくと
舌を抜かれるというような伝説とも迷信ともつかない言い伝えがありますが根拠はありません。
元々閻魔様は神様仏様の信仰の対象であり古代インドのヤマ神が中国を経て日本の仏教に組み込まれたものです。
閻魔様は卓越した神通力で死後の裁判官としてその人の生前の行いを裁きます。
人は亡くなると7日ごとに7人の裁判官の裁きを受けます。(四十九日法要)これを過ぎると喪が明けると一般的に
云われています。そのうち5番目の裁判官が閻魔様です。
閻魔様の前では生前の所業を偽りいくら美辞麗句を並びたてても見破られてしまいます。閻魔様は人の生前の行いに
よって地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上の六道の迷界に振り分けます。従って善行を行った人は人間・天上の
極楽浄土に行くこともできるのです。そしてどの迷界に行かされても弥勒菩薩が現れる56億7千万年の永い間
六地蔵(お地蔵さま)がそれぞれの衆生を救うと云われています。閻魔堂敷地内にも六地蔵が建てられています。
閻魔堂木造閻魔王座像(流山市有形文化財)
閻魔堂建物全景
閻魔堂看板
六地蔵
「金子市之丞」
閻魔堂の敷地内に閻魔様と向かい合わせの位置に金子市之丞と三千歳(みちとせ)の墓が建てられています。
市之丞は明和六年(1769年)流山の酒造家金子屋の一人息子として誕生したと云われています。
幼少期、稼業の酒屋が経営不振となり店は倒産寸前の状態になりました。更に父親も亡くなり市之丞は博打に
手を出すようになりました。博打で負けが続きついには盗賊にまでなり下がったのです。盗賊といっても
鼠小僧次郎吉のように金持ちから金品をゆすり取り貧しい村人に分け与えるいわゆる義賊と云われています。
しかし罪人であることに変わりはなく役人に捕らえられ小塚原の刑場で処刑されてしまいました。
村人にとっては悪人ではなく自分たちに恵みを与えてくれた恩人であるため遺体を引き取り閻魔堂内に墓を建てました。
市之丞が登場する物語があります。江戸時代の講談師松林伯円(1816~1893)作の講談「天保六歌仙」と
河竹黙阿弥作で明治14年初演の歌舞伎「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)です。
いづれもクセのある六人の登場人物が織りなす物語です。河内山宗俊・片岡直次郎・森田屋清蔵・金子市之丞・暗闇の丑松
そして紅一点花魁の三千歳です。三千歳は市之丞の愛人とも妹とも云われていますが定かではありません。
金子市之丞画像
金子市之丞と三千歳(右側の草むらの中)の墓
追記)流鉄流山駅の改札を出て左側の角に石井常吉氏作の流山出身金子市之丞貧民に恵みの場」という彫刻がありますので
機会があればご覧になって下さい
高橋 則行 4区 1969年教育卒