今年初4月15日の散策会は4名参加です。
今回の散策地は築地です、正確に言えば中央区明石町です。築地なら何度も行っているし、よく知っていると言われるかもしれません。しかしそこは流山稲門会の企画ですから、一捻りしてます。築地は名前の通り埋め立て地であり明治時代の1869年に外国人居留地になり日本初の場所がいっぱいあるのです。
先ずは予備知識を仕入れる為に明石町にある中央区立郷土天文館を見学しました。館内には江戸時代の日本橋魚河岸や築地ホテル館(外国人向け日本初のホテル)のジオラマや江戸時代の木製水道管、遺跡発掘調査で出てきた江戸時代や明治時代の茶碗の展示など色々面白いものが展示されていました。
さて散策開始です、居留地発掘調査の跡を実際に訪ねてみました、現在の明石小学校がそこで角地に当時をしのばせるガス灯とかレンガ積みの後がみられました。
明石小学校の向には関東大震災で倒壊した居留地時代から建つカトリック教会が再建されており、居留地時代教会の梵鐘を見る事ができました。居留地の各教会には宣教師が多くおり、日本人に対して英語や法律、女子教育など西洋文明の普及をおこなっていました。
立教学院
良きライバル慶應義塾大学は福澤諭吉が中津藩の蘭学塾教師に着任したことに始まりますが、中津藩の屋敷もここ明石町にありました。慶應義塾大学創立100周年(昭和33年 1958年)記念として建立された記念碑です。
慶應義塾大学創立100周年記念碑
杉田玄白、中川淳庵が中津藩の前野良沢の家に集まり1771年にターヘナル・アナトミアの翻訳を始めたのも明石町で「蘭学事始の地」記念碑です。
明石町で病院といえば聖路加国際病院が有名ですが現在の聖路加国際大学の敷地に創設者のトイスラ―記念館があります
そしてトイスラ―記念館の左手にはここが米国公使館の跡地であり事を示す石碑を発見、明治時代には明石町に300人以上の外国人が住んでいたそうです。発掘調査では紅茶のカップなど当時の生活が偲ばれるモノが色々が出てきたそうです。
この通りで「芥川龍之介生誕の地」の看板を発見しました。居留地とは関係なそうですが、実は芥川の父親が牧場に務めていて外国人の家に牛乳を配達していたそうです。
江戸時代には江戸城に近い明石町付近には大名や旗本の屋敷が多くあり、なんと浅野内匠頭住居跡の碑を見つけることができました。松の廊下の直後所領召し上げで今はただ淋しく石碑が残るのみであります。赤穂浪士は討入りの後永代橋を渡り八丁堀を越え、この地を左手に見なら雪を踏みしめ泉岳寺にむかいました。
今回の散策地である明石町から10分ほど歩いた築地に大隈重信住居跡があるので、散策のラストはその跡地に建つ超高級料亭「新喜楽」へと歩きます。実は大隈重信の築地にあった屋敷も旗本屋敷の払い下げ地であり、現在の新喜楽が200坪であるのに対し大隈重信邸は5000坪の敷地と言われていますから右側の黒壁のビルも大隈邸でしょうし、後ろの白いビルの遥か奥まで大隈邸だったのでしょう。早稲田大学校友として物知りになりガッテン!
政界の大物である大隈重信侯のもとには各界から訪問者がたえず、多くの応接室、会議室、現代でいうところの駐車スペース、運転手控室などもあって壮大な屋敷だった事でしょう・・そう考えると去年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」で渋沢が築地にあった大隈の屋敷を訪問するシーンが思い出されます。真冬のような一日でしたが充実した散策でした。
2022.4.16 笠井 敏晴 (散策会世話人 1972卒 名都借在住)