散策会

(第10回散策会)野馬の放牧地の跡を訪ねて

○コース 豊四季駅(集合)→成顕寺→諏訪神社→オランダ観音 →野馬除土手跡、野馬掘→茂呂神社→流山文化会館

3月7日午後2時、東部野田線豊四季駅改札口に集合した参加者は15名。暖かい日が続いた2月だったが3月になると一転真冬に逆戻り、今年の第一回散策会が開催されたこの日も冷たい北風が強く寒い一日だった。駅前の案内板を見るとこの辺りに神社仏閣が如何に多いかよくわかる。豊四季駅から徒歩約10分の成顕寺に向う。途中、風は冷たいが満開の梅があちこちに見られ、春の香りが漂っていた。

成顕寺は鎌倉時代(1276年)に真言宗の寺として創建されたが、その後日蓮宗の高僧に論破されて日蓮宗に改宗されたといわれる。

この寺は明治の初めまでの神仏習合時代には諏訪神社の奥の院と呼ばれ、神仏習合の形跡が残る寺院といわれる。境内の案内によると、文化財として日朗上人(日蓮門下)書の「十界曼荼羅」と鰐口が有名だという。この鰐口は直径90cmもある大きなもので、鉦の緒という布縄で鼓面を打つと誓願成就するというので鰐口を打ち鳴らして参拝。境内には和紙の材料になるミツマタの大きな木があり黄色の花が満開だった。ペットの墓もある。 成顕寺から諏訪神社までは約10分の距離。

諏訪神社は「おすわさま」として親しまれ、豊四季駅から程近いこともあって初詣や毎年8月22日、23日の大祭等には参拝客で賑わい、前の道路が車で大渋滞となることもある。

諏訪神社の創建は807年。天武天皇の子孫が信州の諏訪神社から「おすわさま」を仮遷して祀ったのが始まりとされるから、今日まで約1200年の歴史を刻んだ由緒ある神社だ。

境内には鬱蒼と繁った大きな樹木が多く、静かな緑の中を奥へ進むと何か心和む思いがする。 境内のあちこちに石碑が多く立てられている。初詣などの時は参拝客が多くて林の中の石碑をゆっくり見学することなどなかったが、今回は境内を見てまわり新しい発見が沢山あった。

源義家献馬のブロンズ像は有名だが、狛犬の大きいのにも驚いた。これらの像は彫塑界の巨匠北村西望の作だという。北村西望が100歳のときの書が石に刻まれて林の中に数多く立てられている。中でも「今日は」の書などは特に親しみを感じるものだった。また、教育勅語や1945年8月15日太平洋戦争終戦の玉音放送全文が石に刻まれていたのには驚いた。

諏訪神社の門を出て左に曲り神社の森に沿って進むと境内の広さがよく解かる。大きな竹林を過ぎると右側に栗林、里山の雑木林を見ながら進む。梅の花があちこちに見られる。今が満開だ。ふと見ると家の庭先に濃いピンク色の桃の花が咲いていた。桜の前に咲く桃は珍しい。「オランダ観音」に到着。

この地は鎌倉時代頃から軍馬の放養供給の地だったらしい。徳川幕府四代将軍家綱の頃、オランダからペルシャ馬を輸入し小金牧に放した。しかし、気候になじめず暴れまわったので狙撃されて傷を負い、住み慣れた沢に逃げて水を飲みながら息絶えたと伝えられる。

今から約330年前、このペルシャ馬の死を悼み小さな祠を建てた里人のやさしい心が今に受け継がれていた。

オランダ観音を後にして茂呂神社に向かう。途中の道に沿って野馬除土手跡が続いていた。主に江戸幕府直轄地の牧で放牧された馬が民家や田畑に入り込まないように作られた土手で、流山市内のあちこちに残っているそうだ。そのなかでも松ヶ丘に残る土手が他の土手に比べて高く、二重土手になっているという。

この辺りは「市野谷の森」と呼ばれる地域でクヌギ、コナラ、スギ,ヒノキなどの多い里山が続いている。江戸時代は幕府の直轄地で、野馬放牧場から野馬入場新田として開発許可が下り、村人がそこに入って薪、炭の原木を採り、また苗木を植林できる入会権を与えられ里山として引き継がれてきたという。

しばらくすると、来年秋開通予定の常磐新線が見えてきた。左側に建設中の「オオタカの森駅」を見ながら進む。

鳥類に詳しい榎本さんのお話では、流山警察署の南側に広がる森林が「オオタカの森」と呼ばれるところ。ここにオオタカが生息していることが平成4年に確認さていたが、常磐新線の開発で森の東半分が無くなってしまい現在オオタカが生息しているか確認されていないらしい。このオオタカは将軍が鷹狩に使ったあの鷹だそうだ。松戸市の北小金駅西側の台地辺りは将軍が鷹狩をした場所だったと聞いたことがある。

この辺りまで来ると、吹いていた冷たい風も気にならなくなり体も汗ばんできた。道路端を見るとオイヌノフグリ、ホトケノザ、シバザクラ等が小さな花を開いていて春の気配があちこちに感じられる。流山警察署前を過ぎると程なく茂呂神社に到着。

茂呂神社は、日本最古の神社国別一覧表である延喜式神名帳(式内社)に記載のある、1000年以上の歴史をもつ古い神社だ。境内に建てられている「拝殿屋根葺替記念碑」によれば、創立年代は奈良時代・平安初期に大和地方から当地に部族の移動記録があることからこの時代と推察されている。祭神は奈良県桜井市の三輪神社の分霊で大物主命。1月には豊作を祈る伝統の「チンガラ餅行事」が行われるそうだ。

昔は広大だった境内も今は両側が道路の拡張で削り取られて、小さな鎮守の森にひっそりと囲まれている。

最後の目的地流山文化会館に到着したのは16時20分頃。当文化会館で開催中だった「新撰組まつり」は終了したところだった。

豊四季駅を14時に出発してから文化会館まで約2時間半歩きつづけたが、立ち寄った神社仏閣などは古い歴史のあるものばかり。私達の祖先は、清貧に甘んじ、神社仏閣を建て,鎮守の森を作り、子孫のための守り神として残してくれたが、それを1000年以上も代々守りつづけてくれたことは大変なことだと、その叡智を改めて考えさせられた。

17時から流山駅前の「日本」で恒例の懇親会。10回目となると自己紹介の必要もなくなり、和気あいあいで盛り上がり楽しいひと時を過ごし、19時頃閉会となった。

いつもながら漆野さんをはじめ世話人のみなさんのご苦労と、ご配慮に感謝いたします。

また散策記を書くに当たってご協力いただきました秋田谷さん有難うございました。

野中 敏 (1960年 法学部卒)