平成19年5月13日
当日天候はうす曇でほとんど汗ばむこともなく、また寒くもない絶好の散策日和となった。
予定時間9時47分に成田線安食駅に電車は到着。閑散とした駅前ロータリーのはずれにあるバス停から10時2分発の龍角寺台車庫行きに乗り込む。乗客は我が流山散策会のメンバー10名の他4名。
酒直小学校前のバス停で下車、左折すると酒直小学校があり、その先に素羽鷹神社の森が見え、神社前の竹やぶや林に囲まれた細い舗装されていない道を10分ほど行くとT字路に突き当たり、標識に従って左折し、まもなく竜角寺に到着。
龍角寺は、関東地方でもっとも古い寺院のひとつといわれ、千葉県最古の709年(白鳳時代)に作られた国の重要文化財に指定されている本尊の薬師如来坐像(仏頭が白鳳時代の作)が安置されている蔵を覗くも、残念ながら葵?の紋のついた白い扉が閉まっており、垣間見ることが出来なかった。寺は建立当時の建物は一切残っておらず、「金堂」「講堂」「三重塔」の礎石で往時の姿を知るだけであった。
三重塔は30メートルの高さがあったとされ、現在国の史跡に指定されている巨大な礎石の中央に直径50cmほどの真円の柱穴が空いていた。ここに塔を支える巨大な柱が立っていたと推測される。解説には「この石は古来より不増不滅の石と呼ばれており、昔は柱穴に溜まった水は決して増減しない」と記されていた。
龍角寺からT字路にもどり左右に分かれた道の右手の山道に似た細い道に入り、しばらく行くと千葉県立「房総風土記の丘」の入り口に。
入り口から白鳳の道をたどっていくと左右に「円墳」「前方後円墳」の形をした標識に番号が付された古墳群があり、そこを抜けると風土記の丘資料館に到着。古墳群は資料によれば房総風土記の丘の内外にわたって112基(前方後円墳35基、円墳72基、方墳5基)があるとされているが、樹木や草に覆われ小さな丘が点在しているように観えた。
資料館には、風土記の丘に点在する古墳の配置図や発掘された石棺、千葉県の各地の古墳から出土した土師器類・埴輪・刀剣、龍角寺の瓦および奈良の山田寺の瓦等が展示され、また龍角寺では見ることが出来なかった薬師如来の仏頭の模造が展示されていた。また2階には、石器類の展示や、古墳の発掘時の状況の写真等考古に興味のある方には参考になるが展示されていた。資料館の横を通り「房総のむら」に入る。水田地帯をとおり、農地の中に江戸時代の名主の館が再現されていて場所に出た。ここでは、竈にお釜をかけ火を燃やし、傍らでお茶作りの体験をさせていた。
牛島・山本(正紀)・野中・菅原・秋田谷・榎本・亀田・川口・工藤・漆野
名主の館の見学後、お祭り広場にある休憩室風の建物のベンチに腰をおろし、ハイキング気分で各自持参の昼食を摂る。昼食後近くにある茶店で草もち等のお茶請けで煎茶を飲まれる方や、広場内を散策する方等適宜30分程度の自由時間を過ごしたのち、まるでタイムスリップしたかのような再現された江戸時代の商家の町並みを見学。
再現された商家の街並みは映画やテレビのロケにも使われているとのことで、当時の薬屋・鍛冶屋、蕎麦屋、藍織物屋、簪屋等などの店構えや調度その他も再現、それぞれの店の2階にはそのお店に関する展示スペースになっていた。
再現された商家町並み以外の施設は田園や里山風の広い敷地の中に、上総・安房の国といわれていた江戸時代を彷彿させる復元建物等を点在させ、多分数十年前まで行われていたと思われる村の境界を示す風俗的飾りが吊るされている。小学生までの子供さんならば農家の庭に置かれていた竹馬での遊びや、各種体験コーナーで一日中遊べるだけの広さが備わっている野外博物館と感じられた。
「房総のむら」の大木戸を出て風土記の丘に移築された①1779~80年ごろに建てられた「旧御子神家住宅( 国重要文化財)」②1779~80年ごろ建ててられ「旧平野家住宅」(県指定重要文化財)および③学習院初等科正堂(国重要文化財)を見学。
このうち、学習院初等科正堂は1899(明治32)年,東京四谷尾張町に建てられ、1937(昭和12)年,印旛郡遠山村に払い下げられ,遠山尋常高等小学校の講堂として使用されたとの解説がなされていた。建物は1階建で,中は広間で床は寄木でできていた。正面には階段によって演壇が設けられ,演壇中央は半円形に張り出していた。また柱は中央部分がやや膨らんだ円柱になっており,さすが昔の華族の学校と思われた。
学習院初等科正堂の前庭の奥に101号古墳と復元古墳がある。復元古墳には、出土した埴輪の模造が幾段にも発掘された状況に置かれており、古墳の上にさらに埋葬が行われたのではないかと推測された。
101号古墳復元の横から風土記の丘に別れを告げ成田市の「坂田ヶ池総合公園」を縦断して約20分で下総松崎駅に14時ころ到着し解散。
山本正紀(1964年 商学卒)