流山市鰭ヶ崎の台地上に東福寺があります。
山号を「守龍山」、院号を「証明院」といい、弘仁5年(814年)弘法大師開基の真言宗豊山派の寺院です。国内の真言宗豊山派の総本山は奈良の長谷寺です。
本堂には弘法大師作と伝わる薬師如来像と不動明王像が安置されています。流山の東福寺はこの地一帯(現在の流山市、松戸市、三郷市、八潮市)の真言宗の寺院130余りを末寺とした本寺でもあります。また、明治期つくられた「江戸川八十八ケ所霊場」の総本山ともなっている名刹です。
境内には多くの堂宇や石仏などが建てられており、正面入り口の仁王門には運慶作と言われている高さ2.7mの阿吽の金剛力士像が安置されており、流山市の有形文化財に指定されています。また、本堂右側の中門は日光東照宮造営の際と同一の材料で建立されたと言われています。左側の「千仏堂」には中央に高さ1mの阿弥陀如来像とその左右に高さ25cmの小さな阿弥陀如来像が各500体ずつ計1001体安置されており、市の有形文化財に指定されています。
次に、東福寺には古くから伝わる伝説や民話がありますので幾つか紹介します。
《鰭ヶ崎伝説》
「昔、弘法大師が立ち寄った高台には五色に輝く美しい池があり、竜王が住む所とされていた。大師が山上に立つと竜王が老翁の姿となって現れ、この山は東方の福田であり、薬師如来が常住すべき土地であるから瑠璃光仏を彫って寺を建てこの地を守ってもらいたい。そしてこの山を守竜と呼び、寺を東福としてほしいと請願した。大師は早速仏像の材料となる御衣木(みそぎ)を探したところ突然竜が現れ霊仏を大師にささげた。大師はこれに手を加えて薬師如来を刻んで本尊とした。この時、竜がすこしばかり背鰭の先を残していったのでこの地を「鰭ヶ崎」と呼ぶようになった。」
《目つぶしの鴨伝説》
中門の鴨居には日光東照宮の「ねむり猫」で有名な左甚五郎作と伝わる鴨の彫刻があります。
「昔、夜になり人々が家路につくと田畑を荒らすものが頻繁にあった。村人は困りはてていた。ある朝、中門の柱や鴨居の上の鴨の彫刻の足も泥で汚れていた。これは田んぼの鴨の仕業に違いないと彫刻の鴨の目に釘を打ち込んだ。以後、鴨は田畑におりて来なくなったので鴨居の鴨を「目つぶしの鴨」と呼ばれるようになった。」
《秀郷伝説》
「平将門が東国に承平天慶の乱(931年~947年)を起こした時、藤原秀郷が東福寺で祈願をするとその夜の夢に高僧が現れ敵軍敗北を告げた。秀郷が身を清めて祈ること27日目、天慶3年(940年)2月14日の午の刻、宝殿の扉が自ら開いて白羽の矢が東に向かって飛行し雷が響くようであった。この日、秀郷はみごとに将門を討ち滅ぼした。この勝利の報に喜ばれた天皇は、役人にお命じあそばされ金堂を修理し、荘田500石を寄進した。」
その他、東福寺には二十一仏板碑や庚申塔、市内最大の延命地蔵など多くの石仏が建てられています。
本堂正面
「千仏堂」1001体阿弥陀如来像
中門鴨居の「目つぶしの鴨」上
髙橋則行(1969年教育卒、NPO法人流山史跡ガイドの会 理事)