わが街流山

「わが街流山」No.11 新撰組はなぜ流山に来たか!

ご存知のように新撰組は江戸時代末期に幕府(松平容保)が京都の治安維持の為に設立した、浪士による言わば軽装備の警察予備隊である。池田屋事件、戊辰戦争、甲府などの戦闘に参戦した。戊辰戦争初戦の鳥羽・伏見の戦いで敗北後は江戸に撤退、再編成された新撰組は江戸城から出陣し名を甲陽鎮撫隊と名を変え、甲府での敗退後(慶応4年3月6日)は又江戸に戻るが隊士の離脱がつづき分裂か壊滅かと思われた。がしかし昭和50年に足立区綾瀬4丁目の「金子家」で新撰組に関する新たな資料が発見された、それによれば甲府から戻った後に新撰組は「金子家」を拠点にして、まだ武器の調達をし戦闘体制を保持していたらしいのである、

新撰組流山本陣跡に建つ パネル

慶応4年4月2日に新撰組が五兵衛新田(綾瀬)から流山に到着した時点においては十分と言えないものの武器調達ができており戦意はまだ衰えていなかったと思われる。近藤勇、土方歳三以下200余名の隊士が丹後の渡し(流山市)から江戸川を渡り流山村に本陣を構えたのである。

流山では数か所(本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等)に別れ宿泊をしていた、光明院には新撰組分宿の表札が掲げてあります。

流山市立博物館には長岡屋の蔵の階段が展示されていて、もし近藤が長岡屋の蔵に宿泊していたとすればこの階段を利用していたかもしれない。

話が少しそれますが、新撰組の隊士が流山村の蕎麦屋「小西屋」でそばを食べたとの話もある、現在でも「小西屋」は実在しており、当時隊士がそば代として置いて行った小脇差がご主人の手元にあります。その映像はアド街ック天国流山市編(2014年9月14日放送)にも出てきたのでご記憶の方もあるでしょう。ご参考までに私の食べた写真の小西屋「もりそばえび天付き」蕎麦が多すぎて海老が見えませんが、なんとこれで普通盛りなんで少食の方はご注意ください。

流山市博物館展示パネル

本題に戻りますと、各所に分宿していた新撰組の情報を得た新政府軍は大砲まで準備し一戦交える陣形(長岡屋のすぐ先の浅間神社に仮本陣をおいた)でしたが、近藤は流山が戦場になり火に包まれるのを回避する為4月3日に大久保大和(近藤勇の偽名)と名乗り総督府へ出頭して幕府公認の治安隊と主張したが、近藤勇であることが露見し捕らえられ、4月25日近藤は武士として切腹もかなわず板橋宿で処刑(享年35歳)されました。

近藤勇の命と引き換えに流山村は戦渦にもまきこまれず残りましたが、この時最後まで近藤の出頭に反対し必死に止めたのが副長の土方歳三でした。今でも当時の新撰組本陣の足跡を残すものとして長岡屋の土台の石があります。

所でなぜ新選組は流山にきたのでしょうか、新選組本陣跡地の長岡屋は現在秋元酒店になっており店内には近藤勇直筆の覚書があり、「…報国の為武着金50両進んで幾久しく受納致し仕し…、局長近藤勇、昌宣(花押)、文久3年10月、小西屋新右衛門.代理 貞平.殿」などの文字が読み取れます。文久3年(1863年)の書面ですから慶応4年(1868年)に新撰組が流山に来る5年前に近藤は既に流山在住の人物と連絡をとっていた事になります。3月14.15日の勝・西郷会談で江戸城明け渡しも決まり、幕府軍は東北数藩のみであり、近藤勇は武士として死に場所を求め会津などの藩と合流するため江戸を出て、土地勘と知り合いのいる流山(足立区綾瀬から直線でわずか3里弱)に転進して来たのでしょうか。脱落者も出るなどしたが隊士たちは6日布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜け会津へ向いました。その後会津での敗北で新選組隊士は数えるほどになってしまったが、土方歳三は更に仙台から幕府最新鋭の軍艦開陽丸で北海道まで移動し、函館戦争では幕府軍の指揮をとり再三勝利しその指揮ぶりは政府軍を恐れさせました。

明治2年、土方歳三は函館戦争において一本木関門を死守し自分を武士として取り立てくれた事への「義」を貫き通し、最後は新政府軍に切り込み、腹部を撃たれ絶命したとも言われる。

写真は一本木の記念碑ですが、今も花が絶えないそうです。流山で近藤と土方が今生の別れを告げてからわずか1年後の事であり、近藤勇と同じ享年35歳の若さであった。

笠井敏晴 (1972年 教育学部卒 名都借在住)